
正欲
あらすじ
『正欲』は、ある事件をきっかけに、交わるはずのなかった三つの視点が近づいていく小説だ。検事の寺井啓喜は、息子の不登校に対して、自分の持っている「正しさ」の枠からなかなか出られず向き合うことができない。大学生の神戸八重子は、ダイバーシティ推進を掲げて学園祭企画に関わる中で、同じ学生でダンスサークルに所属する諸橋大也と向き合うことになる。
契約社員の桐生夏月は、誰にも言えない、水に強くひかれる嗜好を抱えて生きている。中学時代、校舎裏の水飲み場の記憶を共有する佐々木佳道と再会したことで、ようやく息のつける場所ができる。三人の人生はばらばらに進んでいるようで、やがて一つの事件に向かって収束していく。
「正しい欲」は誰が決めたのか
いちばん腹が立ったのは、啓喜の「正しさ」があまりにも迷いなく動くことだった。検事としても父親としても真面目に振る舞っているが、その真面目さは、多数派の定規から一歩も出ない。彼がこれほど『普通』に固執するのは、検事として『ルートから外れた人間』の転落を数多く見てきた恐怖があるからだ。 特に、過去に担当した『蛇口を盗み、水が噴き出す様子に興奮する男』の記憶が、不登校の息子が投稿する動画の内容と重なり、彼をさらなる拒絶へと駆り立てる。 息子や妻との距離が広がるのを厭わないほど、彼は『正しさ』という防波堤にしがみついている。
"多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。" ——『正欲』7ページ
ただ、啓喜をただの嫌な人で終わらせにくいのも苦しい。人は自分のことですらよくわからないのに、他人の欲の正しさまで判断できると思ってしまう。その思考回路は啓喜の中だけにあるわけではなく、読んでいるこちら側にもあるのではないか。
息子が掲げていたのは『正しい進路』ではなく『明日死なないこと』だった。この世界では、健康や貯蓄、人とのつながりといった『正しい営み』はすべて、『明日死なないこと』という海へ辿り着くための『河川』として機能している。
啓喜はその河川に乗ることこそが生存の絶対条件だと信じているが、息子たちはその河川そのものを疑っている。啓喜が抱く不安は、息子が『生きるための正しいルート』から外れ、海に辿り着く前に死んでしまうのではないかという、親としての歪んだ愛でもあるのだ。 最後にはその正しさを貫き、理解できないことへの拒否反応から家庭を壊す方向へも進んでいく。その姿を見ていると、自分の中の「普通」も一緒に疑われる。
佐々木と夏月——「自分だけじゃなかった」が人を生かす
夏月と佐々木の場面は他の登場人物の物語に比べると静かで、空気も変わる。二人の間にあるのは恋愛感情ではなく、「いなくならない」という安堵・つながりだった。自らの嗜好がマイノリティであるが故に社会に溶け込めず、しかしその社会で生きていかなくてはならない。その葛藤や怒りが突き抜けそうになった時に二人は再会する。
"食欲は人間を裏切らないから、です" ——『正欲』75ページ
マジョリティに支配された社会でも、人との繋がりがなければ生きていくことは難しい。マイノリティの中で繋がりを持つことは勇気がいることだが、夏月と佐々木はそこにようやく避難場所のようなものを見つける。
"自分たちが正しい生き物じゃないって。いつの間にか、夜がもう目の前まで来ている。" ——『正欲』158ページ
だからこそ、二人が繋がりを広げようとしたところで事件の影が差したとき、胸が締め付けられる。 彼らは決して無秩序に欲望を貪っていたわけではない。『撮影は人目に付かない環境で』『ネットにはアップしない』『直接会って渡す』という、マジョリティを不快にさせないための厳格な三つのルールを課し、自分たちの世界を守ろうとしていた。
そのささやかな避難場所が、啓喜のような『正しさ』を持つ側によって『おぞましいパーティ』として暴かれていく構図は、あまりに残酷だ。
八重子と田吉——腹立たしい2人がいる意味
八重子と田吉もかなり腹立たしいキャラだ。八重子のダイバーシティ推進は善意から始まっているのだろうが、掲げている言葉が先に立ちすぎていて、当事者に届く前に空回りしているように見えた。田吉(佐々木の会社の同僚)はもっと露骨で、自分の理解できる範囲の外にあるものをさっさと切り捨てようとする。その雑さは啓喜に通じるものがあり、腹が立つ。
でも読み進めると、八重子に関しては自分の認識が大きく変わった。 八重子は完全な『外側』の人間ではない。彼女の家には、優秀だったはずが大学卒業後に引きこもりとなり、両親から『最初からいなかったもの』として扱われている兄がいる。 『正しいルート』に戻そうとする両親の言葉が、部屋に閉じこもる兄を透明化していく薄気味悪さを知っているからこそ、彼女は大也の瞳の奥にある、言葉にできない孤独に反応してしまう。 大也との対話で距離が縮まったのは、彼女自身もまた、家族という最小単位の社会で『正しさ』から漏れた存在を間近に見てきたからだろう。印象が劇的に好転したわけではないが、最後まで読んだときにいちばん変わったのは八重子の見え方だ。
「わかる」とは言えない。だから対話するしかない
この本に出てくる欲や孤独に対して、軽々しく「わかる」と言うのは違う。わからないものを、わかった顔で包もうとする危うさは、作中のヒットドラマ『おじ恋』にも象徴されている。 マイノリティの恋を『ハッピーエンド』として加工し、マジョリティが消費しやすい形に整えてしまうメディアの姿勢に、夏月は激しい吐き気を覚える。 啓喜のように『そもそも見ない』層も怖いが、それ以上に、わかったつもりで自分たちの孤独を『おめでたい多様性』の中に回収しようとする善意の暴力に、彼女たちは絶望しているのだ。
そのどちらにも寄らずにいるには、相手に合わせて話をきれいに終える会話ではなく、違うまま向き合う対話を続けるしかないのだと思う。
"会話が成立していなくても、対話はできていることが肌でわかる。両親と話しているときとは真逆の感覚だ。" ——『正欲』149ページ 夏月の発言より
その意味で、大也と八重子の関係には意味がある。最初はまったく噛み合っていなかったしなんなら酷い関係だったが、言葉を重ねるうちに、わからないままでも隣に立てるのではないかと期待させてくれた。 逆に事件の取り調べ時に、「マジョリティ」からの非難を、諦めの目で見て塞ぎ込んでしまう容疑者たちの様子は、大也と八重子の関係との対比になっているように感じた。
読んでいて思い出したのが、『流浪の月』感想と軽いあらすじ だった。「流浪の月」が二人の閉じた関係の中で「普通」の暴力を受け止める小説だとしたら、『正欲』は複数の視点を並べることで、はみ出し方そのものにも段差があることを突きつけてくる小説だ。
読んだ後、「普通」が口にしにくくなる
『正欲』を「多様性を描いた小説」とだけ呼ぶと、かなり取りこぼしてしまう。「多様性」という一語で片づけようとする自分の浅さはわかるのに、それ以上の言葉がすぐ出てこない。そのもどかしさを抱えさせる本だった。読みながら何度も、理解したいのではなく、理解したことにして安心したいだけではないかと自分の側を疑うことになった。 読み終えた後は、読む前と同じ気分では「普通」や「理解」を口にしにくくなる。
関連記事としては、『流浪の月』感想と軽いあらすじ の「普通」の外にいる二人の関係、『推し、燃ゆ』感想と軽いあらすじ の社会になじみきれない痛さ、『コンビニ人間』感想と軽いあらすじ の矯正される圧も近いところにある。続けて読むと、それぞれ違う形の孤独が並んで見えてくる。



