コンビニ人間

コンビニ人間

村田沙耶香 / 文藝春秋 / 2016-07-27

あらすじ

古倉恵子は、36歳未婚、コンビニバイト18年目。子どものころから周囲とずれることが多く、何をどう感じれば「普通」なのかをうまくつかめないまま生きてきた。

そんな恵子にとって、コンビニは例外だった。店内の音、マニュアル、接客の決まり、その全部がはっきりしていて、自分を「店員」として動かしてくれる。恵子はコンビニ店員としてなら社会と接続できる。

そこに現れるのが、新しく入ってきた白羽という男だ。彼の登場をきっかけに、恵子の生き方は周囲からあらためて問題視されていく。話は結末のかなり手前まで淡々と進むが、その淡々としたまま人の輪に押し戻される感じがずっと続く。

古倉に同情してしまう

古倉は、合理性を突き詰めた結果、かなり危うい人に見える場面がある。冷たく読もうと思えば読める人物だし、サイコパスという言葉を当てたくなる気持ちもわからなくはない。

でも実際に読んでいると、むしろ古倉のほうに気持ちが寄っていった。彼女は壊れているというより、自分なりに一番ぶれずに動けるやり方を選んでいるだけで、その基準が周囲の基準と噛み合っていない。本人は生き延びるために手順を覚え、観察し、合わせてきただけなのに、それがいつまでも「異常」の側に置かれる。

この小説は、「普通でない人」を外から眺めて安心する話にはならない。読んでいるうちに、古倉の側から周囲を見る時間が長くなって、矯正しようとしてくる人たちのほうが急に圧のある存在に見えてきた。

「普通」に浄化されていく描写の冷たさ

自分にとって自然なことが、相手にとって自然とは限らない。まして社会全体の「普通」とはもっとずれている。その差を古倉が理解した瞬間から、周囲は彼女を静かに引き戻し始める。

妹も友人も白羽も、それぞれ別の立場から恵子を「正しい形」に戻そうとする。結婚、就職、同居、会話の受け答え。善意の顔をしながら、みんな同じ方向へ押してくる。その連続を読んでいると、会話の一つ一つが矯正の作業に見えて、だんだん息が詰まった。

印象に残ったのは、その過程がとても機械的に書かれていることだった。感動させようとも泣かせようともせず、ただ「こういう圧力が働く」と並べていく。だからこそ読み手の側に逃げ場がなくて、自分ならどちらを普通と呼ぶのかを考えさせられた。

白羽という鏡

白羽はかなり不快な人物だ。言っていることは身勝手で、他人を見下す視線も強い。それでも、この小説には必要な存在だと思った。

白羽自身も社会にうまく適合できていないのに、古倉に対しては平気で「普通」を求める。そのねじれがあるから、古倉だけが特別にずれているわけではなく、誰もが自分に都合のいい普通を持っているのだとわかってくる。

白羽が隣に立つことで、古倉の異質さは読者に一気に可視化される。ただ同時に、白羽のほうもまた別の種類の歪みとして浮かび上がる。その並びを見ていると、正常と異常の線引きが急に頼りなく感じられた。

レジの音と店内アナウンスが頭に流れ続ける

文春文庫版で176ページと短く、かなり軽快に読める。それでも、読みながら頭に残るのは筋より先にコンビニの音や光や匂いだった。レジの音、陳列棚、蛍光灯、温度の整った店内。その空気が細かく入ってくる。

古倉がいちばん自然に動いているのもコンビニの中だ。売り場を見て、声を出して、手順通りに体を動かしている場面だけ、呼吸が合っている感じがする。店の外ではぎこちなく、コンビニに入った瞬間だけ輪郭が定まる。その落差があったから、恵子にとってコンビニがただの職場ではないと素直にわかった。

「コンビニ人間」というタイトルの意味が変わる瞬間

読み始めたときは、「コンビニで働いている人」というくらいの意味で受け取っていた。けれど最後まで読むと、その言葉の重さが全然違って見える。

古倉は、コンビニという装置を通したときにだけ社会の一部になれる。マニュアルがあり、役割があり、正しい動きが定義されている場所だからこそ、そこにいる自分を保てる。つまり彼女は単にコンビニ店員なのではなく、コンビニを通じてしか社会と接続できない「コンビニ人間」なのだと気づく。

コンビニの店員が「コンビニ人間」だと気づくまでの物語。そう思って振り返ると、最後の着地が急にくっきり見えて、タイトルそのものの見え方が変わった。

まとめ

村田沙耶香『コンビニ人間』は、社会の普通に収まれない人が、周囲の手で少しずつ浄化されていく過程を、驚くほど乾いた筆致で見せる小説だった。古倉恵子を外側から判断するより先に、彼女の立ち方にこちらの感覚が引っぱられていく。読み終えたあとも、レジの音と蛍光灯の白さがセットで頭に浮かんで、古倉がまだ店内に立っている気がした。

同じ芥川賞受賞作でも、『推し、燃ゆ』感想と軽いあらすじ が他者に寄りかかる危うさを描いていた一方で、こちらは社会の普通に収まれない人が矯正されていく圧をまっすぐ描いている。その違いを続けて読むとかなりはっきり感じられる。