流浪の月

流浪の月

凪良ゆう / 東京創元社 / 2019-08-29

あらすじ

更紗は、自由すぎる両親のもとで育ち、父の死をきっかけに家庭が崩れていく。母にも置いていかれ、預けられた伯母の家では厄介者として扱われ、さらに従兄の孝弘からは執拗に卑劣な視線を向けられ、性的虐待の恐怖にさらされる。逃げ場のない絶望のなかで、更紗は自分の意思でその家を出た。

そこで出会うのが、大学生の佐伯文だ。世間から見れば異様な組み合わせでも、二人のあいだには静かで自由な時間が流れる。けれどその生活は長く続かず、文は誘拐犯として逮捕され、更紗は保護施設へ送られる。

それから15年後。更紗にも文にも別の生活ができているが、再会をきっかけに二人の距離は近づいていく。物語は結末の手前までを追いながら、あのとき何が起きていたのかを静かに照らしていく。

「普通」の押し付けが2人を追い詰めていく

この小説でずっと苦しかったのは、誘拐犯と被害者というラベルが、15年たっても二人の上に貼りついたままだということだった。周囲の人たちは、その枠組みの中でしか二人を理解しようとしない。

更紗の恋人である亮も、本人なりには守ろうとしているのだと思う。けれど実際には、更紗を「傷ついた被害者らしく」あってほしい場所へ押し込めている。亮自身もまた、父親からの暴力や「普通」という規範に縛られて育った過去を持ち、その歪みが更紗への支配欲や暴力となって現れてしまう。 文のまわりも同じで、社会が用意した説明の型から外れた瞬間に、二人はまた排除されそうになる。

"本物なんてそうそう世の中に転がっていない。だから自分が手にしたものを愛と定めて、そこに殉じようと心を決める。それが結婚かもしれない" ——『流浪の月』148ページ 更紗の内面での独白より

読んでいて思い出したのは、『コンビニ人間』感想と軽いあらすじ で古倉が「普通」に浄化されていく感覚だった。ただこちらはもっと感情の痛みが前に出る。善意の言葉まで刃物のように見えて、ページをめくる手が少し重くなった。

気持ちを薄くしてやりすごすしかない、でも寂しい

世界はどうしようもないことで溢れている。文は「大人の女性を愛せない」という自身の性質に苦しみ、更紗は「女」として見られることに恐怖を感じて生きてきた。二人は、そのまま受け止めたら壊れてしまうものを抱えていて、それぞれのやり方で感情を薄くしながら生きてきたのだと感じた。

更紗にとって、自分を性的対象として見ない文の傍だけが、唯一呼吸のできる「聖域」だった。ただ、薄くしたぶんだけ孤独は消えずに沈んでいく。二人が再会して、互いの欠けた場所に静かに手を当てるように過ごす場面を読んでいると、安心と危うさが一度に来た。

「事実と真実はちがう」

"事実と真実はちがう。"

この一言が、この小説の芯だと思った。事実だけを並べれば、文は誘拐犯で、更紗は被害者になる。けれど真実は、その言葉だけでは到底届かないところにある。

この言葉が刺さるのは、現代のSNSやネット上の悪意が、いとも簡単に「事実」を捏造し、二人の現在を壊していく描写があるからだ。盗撮された写真がネットで「ロリコン男の店」として晒され、瞬く間に拡散される恐怖。 外から見えるものだけで理解した気になった瞬間に、当人にしかわからない時間を切り捨ててしまう。その怖さを、更紗と文の時間を読むことで突きつけられた。

阿方さん、安西さん、梨花という理解者の存在

この物語の重さのなかで救いだったのが、阿方さん(更紗にグラスをくれたおじいさん)、安西さん(更紗の勤め先の同僚)、梨花(安西さんの娘)の存在だった。阿方さんは、更紗が父との思い出として大切にしていた「オールドバカラ」のグラスを、彼女の手に取り戻させてくれる。この三人は二人を完全に理解するわけではない。ただ、そこにいることをまず認めてくれる。

説明を求めすぎず、型にはめすぎず、存在をそのまま受け止める人が少しでもいるだけで、物語の空気がわずかにゆるむ。その小さなゆるみが本当にありがたかった。

月を見上げた夜の空気まで変わった

タイトルの「流浪の月」は、読み終えたあとにようやく手ざわりが出てきた。時間は止まってくれないし、世界も勝手に形を変えていく。そのなかで更紗と文は、取りこぼしながらでも生き続けるしかない。

"あの瞬間、ぼくたちは互いの存在のすべてをふたりで支えあっていた。" ——『流浪の月』301ページ 文の独白より

この一文に触れたとき、二人の関係をきれいな名前で片づけたくなくなった。恋愛とも家族とも違うのに、命綱みたいに互いを支えている。

読み終えた夜、すぐには別のことを考えられなかった

『流浪の月』は、世の中の「普通」からはみ出した二人が、互いの心の欠けた場所を支えながら生きる話だった。二人の時間を勝手な名前で整えてはいけない気がして、読み終えた夜はすぐに別のことを考える気になれなかった。

同じ凪良ゆう作品では、『汝、星のごとく』感想と軽いあらすじ もまた、世間の正しさでは測れない関係を描いている。あちらが選び続ける痛みを見せる本だとしたら、こちらは名づけられない支え合いの時間をそっと抱えたまま渡してくる一冊だった。