
さよならジャバウォック
あらすじ
物語は、夫との関係が壊れきった量子が、自宅で夫を死なせてしまうところから始まる。そこへ大学時代の後輩・桂凍朗が現れ、量子は幼い息子のことを気にかけながら、凍朗とともにこの異常事態をどうにか処理しようと動き出す。
導入の印象
前半だけ見ると、切迫した“死体のある家庭サスペンス”として始まる。ただ、そこから先は単なる後始末の話には収まらず、量子と凍朗を中心にしながら、家族の問題や別の人物たちの気配が少しずつ広がっていく。
特に凍朗の存在が大きい。状況自体は深刻なのに、この人物が入ってくることで場面の空気が少しずつずれていく。頼りになるようで、どこか胡散臭く、でも妙に落ち着いている。その違和感が、緊張感を保ったまま物語の読み味を伊坂作品らしい方向へ引っ張っていく。
伊坂幸太郎を読むときの身構え
伊坂幸太郎の作品を読むときは、いつも序盤の「まだ全体像が見えない時間」に少し身構える。この作品も、読み始めてしばらくは断片が多くて、どこへ向かうのかが見えにくい。 ただ、その見えにくさごと読み進めていくと、後半でちゃんと手応えに変わる。その感覚は今回も健在だった。
点が線になる瞬間
終盤、点が線になり始めたとき。
別々の場所にいたはずの人物が、ある出来事を中心に静かに収束していく瞬間がくる。「あ、あのシーンはそういう意味だったのか」という気づきが連鎖する。それは謎解きというよりも、大きなモザイク画が完成していく感覚に近い。
読み返したとき、序盤の「よくわからなかった」部分が全て伏線として機能していたと気づく。伊坂幸太郎はそれを、押しつけがましくなく、さりげなく仕込んでいる。だから気持ちいい。「ほら、伏線だよ」と言わない。ただそこに置いておく。
腑に落ちる、という読後感が近い
読後感は、清々しいというより「腑に落ちた」という言葉が近い。
「さよならジャバウォック」は、伊坂作品の中でも特にその収束感が印象的な一冊だった。最後の数ページで、それまでの全てが一つの意味を持ち始める。そのとき感じる気持ちよさは、映画のエンドロール中に「あの場面、こういうことだったのか」と気づく感覚に似ている。
この作品の奇妙さは、非現実的な設定が前面に出るというより、現実の中に少しだけ異物が混ざっているような感覚から来ていると思う。会話の調子や人物の振る舞いが、ほんの少しだけ普通ではない。そのズレが積み重なることで、「重い題材なのに重さ一辺倒ではない」という独特の読み味になっていた。
ただ、これは誰にでも同じように刺さるタイプの作品ではないとも思う。序盤の断片的な運び方や、現実と少しずれた空気感に乗り切れないと、「何の話なのか掴みにくい」と感じる人もいるはずだ。逆に、はっきりした説明や一直線の展開を求める人には遠回りに見えるかもしれない。読みやすさより、独特の手触りを楽しめるかどうかで評価が分かれそうだった。
タイトルについて
タイトルの「ジャバウォック」は、ルイス・キャロルの詩「鏡の国のアリス」に登場する架空の怪物だ。読み始めの時点では少し浮いた言葉に見えるのに、読み終えるころには、この奇妙な単語が作品全体の空気とちゃんとつながって見えてくる。そういう“あとから効いてくるタイトル”の付け方も、伊坂幸太郎らしいと思った。
まとめ
伊坂作品に何度触れても、この収束する瞬間の気持ちよさには慣れない。むしろ慣れてしまったら困る、という気持ちになる。そんな作家は、そう多くない。
初めて伊坂幸太郎を読む方には、まず別の代表作から入ることをすすめる。でも、最近の伊坂作品も含めて追っている人なら、「今の伊坂幸太郎」がどこへ向かっているのかを知る意味でも読んでおきたい一冊だと思う。



