
イン・ザ・メガチャーチ
あらすじ
音楽業界の会社員・久保田慶彦は、かつて同期の橋本とともにアーティストの「人生の物語」を売る手法で実績を上げていた。現在は経理財務部に異動した47歳。娘の澄香とは月に一度のビデオ通話でつながっている。
契約社員の隅川絢子は、俳優・藤見倫太郎の熱狂的なファンだ。推し活を「呼吸を楽にするための手段」として日々を凌いでいる。同僚のいづみんも同じく倫太郎のファンで、SNSでのトレンド入りに心血を注ぐ。
絶頂期にあった倫太郎が突然死亡する。ファン界隈は激震。橋本は久保田を誘い、IT・ゲーム業界出身のマーケティングリーダー・国見と組んで、新たなアイドルグループ「Bloome」を「物語」で売り出すプロジェクトを始動させる。一方、公式発表を信じられないいづみんたちは、ネット上の謎の存在・Tomoyoに導かれ、「倫太郎は殺された」という別の物語へと依存先を移していく。
朝井リョウは少し苦手だが、今作は別だった
正直に言うと、朝井リョウは少し苦手な部類だ。『正欲』も読んでいるが、読者を追い込む書き方が自分にはやや合わない。
ただ、今作は細部にわたって才能が発揮されていた。推し活ビジネスを作り上げる側、推し活にハマっていく側、推し活の先に陰謀論にハマる側。その三者の視点を交互に描きながら、「物語による救済と支配」を一本のテーマとして貫いている。 448ページの長さだが、視点が切り替わるたびに別の角度から同じ問いを突きつけてくるので、だれずに読み進めることができた。
「いつ、どの物語に自分を使い切るか」
"神がいないこの国で人を操るには、'物語'を使うのが一番いいんですよ" ——『イン・ザ・メガチャーチ』184ページ 国見の台詞
最初は、物語を信じるかどうかのバランスの問題なのかと広く捉えようとしていた。でも読み進めるうちに、そういう話ではなかったと気づいた。
「いつ、どの物語に自分を使い切ろうとするか」——視野狭窄に陥るタイミングの違いが、登場人物たちの明暗を分けている。 絢子、いづみんは推しから陰謀論に、澄香はMBTIからBloomeに。それぞれ違う物語に没入することで、複雑な現実を直視するコストを下げている。
国見は違う。彼はその構造を完全に理解し、かつ客観視している。物語で人を中毒させるシステムを設計する側だから当然だが、客観視のあまり、最後まで自分がどの物語にも入れない。作る側にいることで救済の外に立ち続けている。あれはあれで、かなりしんどい立ち位置だと思う。 慶彦と国見の幸福観や立場はその意味で対比されており、面白かった。
全員が不幸に描かれている、ということ
朝井リョウは今作の全ての登場人物を、客観的に見れば不幸な人間として描いていた。
もちろん、本人たちは不幸だと思っていない。自ら進んで搾取の檻に入り、安寧を求めている。推し活を「心の必需品」と呼び、界隈のコミュニティに救いを感じている。 でもその裏側では、運営のアルゴリズムに踊らされ、金を落とし続けている。
"物語への没入というのは、手取り早く我を忘れるために有効な手段の一つなんですよね" ——『イン・ザ・メガチャーチ』181ページ 国見の台詞
救われている、と思ってしまうこと自体が危うい。でも、そうしないと生きていけないほど現代が過酷なのも事実だ。その両面を同時に突きつけてくるのが、朝井リョウの文章力の高さだと思う。 推し活に懸けている人がこの本を読んだら、全然違う感想が出るだろう。それも含めて、この小説の射程は広いと感じる。
絢子のブーメラン
特に痛烈だったのは、絢子だ。
"今ならば、どれもこれも全部、私たちの脳や思考力を去勢するものでしかなかったのだとわかる。" ——『イン・ザ・メガチャーチ』220ページ 絢子の独白
倫太郎の死後、公式発表を疑い、Tomoyoに導かれて「倫太郎は殺された」という陰謀論に溶け込んでいく。思考停止した状態で社会を「思考力を去勢されている」と批判する。完全にブーメランで笑ってしまった。
ここまで来ると、もはや消費者の潜在ニーズを把握してそれに合わせた物語を提供する、ただのマーケティング戦略でしかない。国見がやっていることも、Tomoyoがやっていることも、構造は同じだ。 信じたい物語を差し出して、信じてもらう。それが救済であり、支配でもある。
考え続けること
自分は物事を考えるとき、具体と抽象の行き来が大事だと思っている。どちらか一方だけを突き詰めることはしない。
この小説を読んで改めて思ったのは、結局必要なのは考え続けることだ。視野を広げて、狭めて、また広げる。大量の情報が流れてくる社会だからこそ、MBTIのようなラベルに自分を当てはめて「私はINFPだから」で済ませてしまう思考停止に陥らないように。 情報の裏に隠れた物語、正解にしたくなるような語りに飲み込まれないように。
"視野を狭く、小さくしていくからこそ見えるものがある。私は手元のミニチュアを見つめる。" ——『イン・ザ・メガチャーチ』130ページ 澄香の描写
この一文は、読んでいるときは澄香の安らぎとして入ってくる。でも一歩引いて見ると、自ら視野を狭めることで得る安寧の危うさが詰まっている。 救いと支配が同じ形をしているということを、静かに、確かに言い当てている描写だと思う。
『正欲』との違い
『正欲』は「多様性の外側にある孤独」を描いた小説だった。マイノリティの欲が社会にどう扱われるかという話で、読後は「普通」が口にしにくくなる。
『イン・ザ・メガチャーチ』はもっと広い。個人の欲ではなく、欲そのものが設計・流通・消費されるシステムを描いている。『正欲』が「わかってもらえない」側の痛みだとすれば、こちらは「わかった気にさせられている」側の危うさだ。 どちらも朝井リョウにしか書けない視点だと思うが、今作のほうが個人的には好きだ。



