
水を縫う
あらすじ
松岡清澄は高校一年生。幼い頃に両親が離婚し、祖母と母、姉と暮らしている。手芸が好きな清澄は、学校でからかわれたり、周囲から浮いたりしながらも、自分の好きなものを手放せない。
そんな清澄は、結婚を控えた姉のためにウェディングドレスを手作りすると言い出す。清澄、姉の水青、母、祖母、そして離れて暮らす父のまわりで、それぞれの抱えてきた違和感や諦めが浮かび上がっていく。連作短編に近い構成で、一つの家族を多方向から見つめる小説だった。
「普通」からこぼれる感覚を丁寧に拾う小説
この作品で強く感じたのは、「普通」からこぼれてしまう人に対する視線のやさしさだった。
手芸が好きな男子高校生という設定だけなら、今では珍しくないと言えるかもしれない。でも現実には、そう簡単に周囲の視線から自由にはなれない。この小説はそこをきれいごとで済ませず、からかい、居心地の悪さ、家族の無理解まで含めて描いている。
ただし、辛さだけを並べる話ではない。清澄が自分の好きなものを好きだと言い続ける姿に、変な悲壮感がない。意地を張っている感じでもなく、ただ手を止めない。その姿を追っていると、読んでいるこちらまで肩に入っていた力が少し抜けた。息苦しさを書く場面があっても、ページをめくる手は重くならなかった。
家族全員が少しずつ不器用
『水を縫う』は主人公だけの話ではなく、家族全員の物語でもある。
姉の水青は「かわいい」を嫌い、母は良かれと思って言ったことが少しずれていて、祖母は見守りながらも全てをわかっているわけではない。離れて暮らす父は父として、人間としての未熟さがある。誰か一人が悪いという話ではなく、全員が少しずつ不器用だ。 その「らしさ」を押し付け合い、理解し合い、互いを受け入れていく。
家族小説というと、最後に全員が分かり合って丸く収まるものも多いが、この作品はそこまできれいにまとめない。それでも、完全にはわかり合えなくても一緒にいることはできる場所までは連れていく。読んでいると、仲直りというより席の座り直しに近い感覚があって、その収まり方が妙にしっくりきた。
中でも興味深かったのは、「家族」の視点を描いた作品でありながら、描かれた視点は清澄、水青、母、祖母、そして父を養い養育費を松岡家に毎月届けにくる縫製会社の社長である黒田、の5人であることだ。この黒田という男、あまりにもいい人すぎる。この男の心情描写に泣ける部分が多々あった。 一方本当の父親である全視点の描写はなかった。それでも、黒田が期待していた全が最後に戻ってくれていたらとても嬉しい。
ウェディングドレスの場面が象徴的だった
この小説では、姉のためにウェディングドレスを縫うという行為そのものがとても象徴的だった。私自身、洋服好きのため、自然と感情移入して読んでしまった。
普通なら「似合う」「ふさわしい」といった価値観が強く乗りやすい場面でも、清澄はそこを自分の手で引き受けてしまう。好きなものを好きだと言うだけでなく、誰かのために形にするところまで進む。その具体性があるから、清澄のまっすぐさが口先のものに見えなかった。
派手な感動で押してくる本ではない。「これでいい」と大声で言ってくれるわけでもないのに、最後のほうでは、誰かに合わせて形を変えなくても暮らしていけるかもしれないと少しだけ思えた。読み終えたとき、気持ちよく泣いたというより、椅子に深く座り直したくなった。
大きな事件があるわけではなく、劇的な逆転もない。それでも人物の顔つきや言い方がちゃんと手元に残る。家族小説としても、思春期小説としても、あとからふと松岡家の食卓を思い出す一冊だった。そういう意味では、清澄は少し成熟しすぎているようにも感じた。
きれいに解決しないから、かえって信じられる
物語の起伏は大きくないし、わかりやすいカタルシスで持っていく本でもない。だからこそ、誰かが急に変わって全部丸く収まる話より、この家族のほうがずっと本当に見えた。
清澄も水青も母も祖母も、相手を完全には理解しないまま同じ場所に立っている。その不揃いなまま終わる感じに触れたとき、うまく言えない家族の気まずさまで置いていかれずに済んだ気がした。
最後に
寺地はるな『水を縫う』は、家族の中にあるずれや息苦しさを見つめながら、それでも「好き」を手放さずに生きる姿を追う小説だった。 改めて、タイトルの名付けにセンスしか感じない。
清澄のまっすぐさは、派手に場面をさらうタイプではない。それでも、服を縫う手つきや言い返さないまま立っている姿を思い出すたび、松岡家の空気がまた戻ってくる。読み終えたあとに静かになるのは、その家の中に自分も少し座っていた感じがあるからだと思う。



