
蜜蜂と遠雷(上)

蜜蜂と遠雷(下)
あらすじ
第6回芳ヶ江国際ピアノコンクール。世界中から集まった若いピアニストたちが、予選から本選まで数日間にわたって演奏を重ねていく。
物語の中心にいるのは4人。養蜂家の父とともに各地を転々としながら育ち、正規の音楽教育を受けていない風間塵。かつて天才少女と呼ばれながら、母の死をきっかけに表舞台から姿を消していた栄伝亜夜。完璧な演奏技術とスター性を持ち、優勝候補の筆頭であるマサル・カルロス・レヴィ・アナトール。そして、楽器店に勤めながらコンクールに挑む「生活者の音楽家」高島明石。
それぞれの事情と覚悟を抱えた4人が、同じ舞台で交差する。2017年に直木賞と本屋大賞をダブル受賞した作品。
恐ろしく長い。でも読める
まずこの本、恐ろしく長い。上下巻合わせて相当なボリュームで、上巻だけで2日かかった。にもかかわらず読めてしまうのは、登場人物がそれぞれの一人称で語る構成が効いているからだと思う。
4人のコンテスタントに加え、審査員や調律師など視点がかなり多い。それでも混乱しないのは、コンクールという進行軸がしっかりあるからだ。一次予選、二次予選、三次予選、本選と進むにつれて人物が絞られていき、物語の密度が上がっていく。『エヴァーグリーン・ゲーム』 を読んだときにも感じた、競技ものの群像劇が持つ推進力がこの小説にもある。
音を言葉でこれほど描けるのか
この小説のいちばんすごいところは、音楽の描写だと思う。
"ショパンのバラードには、幼い頃の感情、わらべうたを歌う時に感じる、遺伝子に刷り込まれたさみしさが含まれているような気がする。" ——『蜜蜂と遠雷』下巻 307ページ付近 亜夜の心情より
ピアノの音を文章で書いている。それだけのはずなのに、読んでいると本当に音が聞こえてくる感覚になる。1回目に読んだときは「うまく書くなあ」くらいだったのが、久しぶりに2回目を読み直したときにそれが確信に変わった。文章が音に変換される体験は、他の小説ではなかなか味わうことができない。
言ってしまえば、「読書」をしていても文章は文章のままだ。 でもこの作品は、読み進めていく中で文章を音に変え、心に蓄積させてくれる。 結果、感動的な場面でもないのに自然と涙が溢れてくる。悲しい・嬉しいとも少し違う。言葉にしにくいが、心の容量を超えた結果がそのまま涙になった、という感じが近い。
この体験がすなわち、音楽を世界に還元する、ということなのだろう。
上巻は明石、下巻は塵と亜夜
上巻と下巻で、物語の重心が違う。
上巻は明石の存在が大きい。楽器店に勤めながら、年齢制限ギリギリでコンクールに挑む。「生活者の音楽」という言葉が出てくるが、音楽を職業にしなかった人間が音楽と向き合い続けることの意味を明石が体現している。ここにまず引き込まれた。 音楽はその人間性が宿る、とはよく言うが、明石の音楽はとめどない優しさに満ちており、それが明石の関係者だけでなく明石を知らない人にも通じ合っていく様は音楽ならではの現象だ。
下巻に入ると、風間塵が触媒となってマサルと亜夜が一気に羽ばたいていく。特に亜夜は、母の死で止まっていた時間が塵、マサルとの出会いで動き出す。 音楽を世界に連れ出す、亜夜を音楽の世界に連れ戻す。その動きが下巻の軸になっている。
順位をつけにいった勇気
内容に関して一つ気になっていたのが、最終的なコンクールの順位だった。個人的には順位をつけない終わり方もあり得ると思っていた。
解説を読むと、連載時には最終順位がなかったらしい。それも一つの美しい終わり方だっただろう。でもあえて順位をつけにいった。これは作者にとっても勇気のいる判断だったと思う。順位が出ることで「それは違う」と感じる読者も当然いるだろうし。
ただ、その姿勢を知ったとき、恩田陸もまたこの本に本気だったのだということが伝わってきて、嬉しかった。
読むことが、コンクールに近い
読み終えて思ったのは、この本を読む行為そのものが、作中の「コンクール」に近い体験だったということだ。
演奏者たちは音で世界を表現し、聴く側はその音を自分の中で受け取る。読者もそれと同じで、文章を通じて演奏を受け取り、自分の中にある何かと響き合わせる。 世界から音楽が生まれ、音楽が世界に還元されていく、という物語のテーマが、読書という行為を通じてそのまま実現されていく。演繹的であり帰納的でもあるその流れがとても綺麗だった。
"ねえ、この世界は、もう音楽でいっぱいよね? ここだけじゃない。あたしたちは音楽に音楽を返さなくちゃね。お礼をしなくっちゃね。" ——『蜜蜂と遠雷』下巻 477ページ付近 亜夜の心情より
恐ろしく長い本だが、読み終えた時には長さのことはすっかり忘れていた。最終ページ読了後も、ページの向こうでピアノが演奏しているような気がした。



