熟柿

熟柿

佐藤正午 / KADOKAWA / 2025-03-03

あらすじ

市木かおりは、警察官の夫との間に息子を身籠っている途中で、激しい雨の夜にひき逃げ事件を起こしてしまう。出産、服役、出所して離婚してからも息子の拓には会えない。そこから先の人生を、山梨、岐阜、大阪、福岡と、仕事を変えながら転々としていく。

かおりは名前を変えずに働くが、過去を知られることを恐れている。息子の入学式に紛れ込もうとしたり、拓のためにお金を貯めたり、もう母親として隣にはいられない。それでも気持ちだけは切れない。

話の大半は、事件そのものより、そのあとをどう生きるかに置かれている。各章の間に数年ずつ空白があり、そのたびにかおりの暮らす場所も、仕事も、人間関係も変わる。結末をぼかして言うなら、償いの話というより、レールから外れた人がそれでも生活を続ける話。2026年本屋大賞第2位。

かおりにイライラするかと思ったら、むしろ空虚さが残った

読む前にひとつ補足すると、自分自身はレールから外れて生きているわけではない、と思っている。だからこの本を読んでいるあいだは、もし外れたらどうなるかを想像しながらページを進めていた部分が多い。『熟柿』はその距離のある想像を、かおりの生活を通じて少しずつこちら側に寄せてくる作品だった。

読み始める前は、かおりにイライラするのかと思っていた。ひき逃げをして、息子に会いたい一心でまた無茶をして、人生をさらにこじらせていく。書かれていることだけ見れば、腹が立ってもおかしくない。

でも実際に読んでみると、そうはならなかった。むしろ事件をきっかけに生まれてしまったかおりの空虚さがずっと前面に出てくる。世間のレールから外れ、自分のリズムがうまく回らず、言いたいことも思うように言えなくなっていく。そのぼんやりした壊れ方が、読んでいてかなりむなしい。

"わたしは犯人なのだ。" ——『熟柿』50ページ かおりの台詞

かおりは犯罪者としての自分へ何度も押し戻されていく。だから反省の物語というより、自分の人生をうまく続けられなくなった人の話の方が近い。

「暇になると病む」とはよく言うが、その時間を仕事に没頭して忘れようとしたり、逆に何もしない日々が続いたり、人の余裕の有無をこの作品はとてもうまく描いている。

息子のために働く場面だけは、まっすぐだった

しんどい話がずっと続く中で、いちばん心が動いたのは、かおりが拓のために働く場面だった。息子と一度も会えないままでも、拓のためにお金を貯める。届けるあても薄い手紙をノートに書き続ける。そこにはきれいごとではなく、執着と母性がそのまま混ざっていた。

"(拓、元気に暮らしていますか。)" ——『熟柿』224ページ かおりの台詞

かおりは何度も足を踏み外すし、正しいやり方を選べる人間でもない。ただ、拓に向いているときだけは妙にまっすぐで、そのまっすぐさが余計に切ない。母親として失格だと周囲から見られても、本人の中ではそこだけが最後まで切れない。その感じはよく伝わってきた。自分もあの立場にいたら、たぶん同じところにだけ気持ちが残るだろうと思いながら読んでいた。

一方で父親のほうは、最後まで読むとなかなか腹が立った。事件の夜、実は父親にも意識があったこと。それでいて罪はかおり一人に背負わせ、自分は警察官の職こそ辞めたものの、拓を引き取って新しい奥さんとのうのうと暮らしている。かおりを気遣うふりをして、子供のためという理屈で離婚や面会拒否を選び続けてきた、その選択全てにイライラした。読者としてはかおりの味方だ。

前を向くきっかけは、いつも誰かが持ってくる

この作品の転機は二つあったと思う。久住呂さんとの出会いと、土井さんや百崎さんとの出会いだ。どちらも共通しているのは、かおりの人生を大胆に救うわけではないが、少しだけ次を考える気持ちを作ってくれることだった。

刹那的に生きていたかおりが、先のことを考え始める。その変化は派手ではない。でも、こういう本ではその小さな変化が大事なのだと思う。突然立ち直る話ではなく、働き先で出会った人とのやり取りの中で、やっと次の一歩が出る。その遅さが、この作品の歩幅に合っていた。

ちょっと物足りない。でも、あとから「これもいいか」になった

読み終えた直後は、正直少し物足りなかった。物語全体として含みを持たせて終わるので、もう少し何かほしかった気持ちはある。とくに大きな答えやその先の続きを受け取りたい人には、そのまま終わる感じがもどかしく見えるかもしれない。

タイトルの「熟柿」は、熟した柿の実が自然に落ちるのを待つ、という意味だと知って、なるほどと思った。すぐに何かが解決する話ではないし、息子とのことも、土井さんとのこれからも、今すぐ答えは出ない。ただ、時期が来るまで待つしかない話として読むと、最後の含み方も少し収まりがよくなる。

少し時間が経つと「まあこれもいいか」という気持ちになった。おそらく同じように感じる人は多いだろう。

『流浪の月』感想と軽いあらすじ も、普通の枠に戻れない人の時間をそのまま読ませる本だったが、『熟柿』はもっと生活に近い。加害者として生きること、母親であり続けてしまうこと、その両方を抱えたまま働き続ける話として、読み終えたあとにじわじわ効いてくる本だった。